白紙の世界03

今日、ふと自分を感じた。

自分のなかに、自分らしさを感じた。

そしてそれにふと思う。

いつだって自分は自分なのに、自分で自分らしさを感じるのはどういうことだろう?

自分らしくない時って、なんで生まれるんだろう?

例えば、こんなのは自分じゃない、と思う時がある。

そうかと思えば、逆にそうこれこそ私、今こそ絶好調、と思う時がある。

テンション、というのかもしれないし、外的要因とかもあると思う。

でも今日、自分らしさを感じた時に、ふとこう思った。

――おかえり、と。

思ってから首を傾げた。

おかえりってなに? と。

自分に対しておかえり? それはおかしい言葉でしょ。

でもそう思ったんだ。

そう思ったんだから、きっとそういうものなんだ。

だとしたら、自分が感じている自分らしさって、もしかすると自分ではないのかも。

「 我思う、故に我あり 」

これを思うと浮かび上がる、中学時代の親友の言葉。

彼は言っていた。

何も考えていない時は、自分がこの世界にいないってことだよ、と。

その時は確か否定した。

例えば寝ていたって、そこに君はいるよと。

でも、今は思う。

その否定は間違いだったのかもしれない。

見方によっては、それだって正しくなる。

たとえば『 魂 』という存在があるとする。

自分はあると信じているけど、それこそが自分だとする。

肉体は、親と世界の意思からもらったものだとする。

そして魂は、自分という存在は、その意識は、わかれることが出来るとする。

そうした場合、あの時に感じたものが理解できる。

魂という名をつけた自分の意識は少しちぎれて自分を離れ、どこかへ行ってしまう時があるんだ。

それはきっと、無意識でも自分の意思によって。

例えば、虫の知らせ。

誰かのことを思ったところでその人からちょうど電話が掛かってくる。

きっと、自分の意識が少しだけ自分から離れて、その人のところに行ったんだ。

あるいは、電話を掛けてくる相手の意識がこっちに来て、それを察したんだ。

怖い話で、生霊、というものだってある。

それだって、つまりは意識だ。

怨念とか呪いだとか、そういうのもきっとそうだ。

うん、それらはけっこう怖い話だけど、でも幸せだって、もちろんある。

例えば幸せを願いつつ不特定多数の人に送るなら、それは沢山の人にうっすらと幸せを運ぶだろう。

そう思える人が多くなれば、うん、その時は世界が幸せになれるのだと思う。

ふと、思う。

寝ている時って、魂はどこに行っているんだろう?

自分の体のなかに留まっている場もあるだろう。

けどどこか、違うところに行っているのだとしたら――、

それはなんだか、面白いと思う。

たぶん眠って空っぽになった自分の体には、誰も入れないんだ。

人の魂とその人の体には、きっとシリアルナンバーみたいなのがある。

あるいは、あらかじめ半分くらいは自分の魂が体に残っている、とか。

体と魂の繋がり、そういう糸とか、鎖とか、あるのかも。

うん、妄想が加速中。

だけど、そろそろおしまい。

まとめるに、つまり自分が自分らしさを感じたのは、どこかに放っていた自分の魂が戻ってきたから。

あるいは、自分だと思っていた誰かの意思が、自分のところにまた放たれたから。

あくまで、仮定のお話。

でも今は、その仮定の話を自分でそうなのだと、きっと真理の1つだと想い、そして、それならば、と思う。

自分の魂、その気力はきっとこの大地から絶えずもらっている。

だから尽きないし、減った分は補充できる。

だったら、送ろう。

このネットを通して、放とう。

これを読んでくれている人に、どうもね、という幸せの想いと、その意思を。

 

ありがとぅ

 

この意思を知ってくれて。

 

ありがとぅ

 

この魂を、感じてくれて。

この時代をともに生き、明日へと向かう僕たちは、この先の未来、この地球をどんな色で飾り、次の世代に贈ることが出来るだろう。

願わくば、その色がとても楽しく刺激的で、そして次に誇れる、そんな世界でありますように。

そんな世界を、この先も自分は願っていけますように。